ABOUT US

上原正吉 Story

「経営の合理化」により、常識を覆す
  • 埼玉県杉戸町に生まれた上原が、大正製薬に入所したのは大正5年。当時は創業者である石井絹治郎ほか数名の従業員が在籍するに過ぎない小さな製薬所だった。入所後、上原に任されたのは経理などの内勤業務であったが、本人たっての希望により、1年後に外回りの営業担当に任命される。
    折しも第一次世界大戦後の好景気の波に乗り、さらに関東大震災により薬の需要が高まっていたこの時代、上原は販路の拡大に努めたが、一方で卸問屋を介して販売する方法に疑問を感じていた。販売ルートを握る問屋の業績に、事業の行く末をゆだねざるを得なくなるからだ。そこで上原が思いついた打開策が、中間業者を介すことなく直接小売店に販売する方法であり、当時は無謀とも取られるアイデアであった。というのも小売店への販売は問屋が行うのが常識であり、問屋を敵に回せば商売が成り立たないとさえ言われていたのだ。だが直販がかなえば事業は安定し、利益も上がる。「自前の販売網を持つべきだ」と考える上原は、その一心で先頭に立って自ら販路を開拓し、道を示したのである。
「誠実さ」と「意識改革」が、起死回生の一手となる
  • 大正7年には大阪に進出したが、東京を中心に事業を展開していた大正製薬にとって、関西進出はゼロからのスタートに近いものであった。経営は困難を極め、支店開設から6年後には閉鎖に追い込まれ、ついにはただの販売店にまで格下げされてしまったのだ。
    昭和4年、大阪支店の立て直しのために支店長に抜擢された上原は、合理主義に基づいて活路を見いだしていく。営業マンに対し、売れ残りによる返品を防ぐために販売店に対する強硬な押し売りを禁じたり、商品配達後の判取りの徹底、さらに細事であっても報告義務を課し、行動指針を遵守させた。加えて誠実な努力を重ね、取引先に「合理的で安心できる会社」と印象づけたのだ。これが功を奏し、当初7名の人員は140名に膨らみ、昭和12年には東京本社の売り上げを抜くという快挙を成し遂げたのである。
    一方、波に乗る大阪支店の裏で東京本社は赤字を繰り返し、いよいよ経営難に陥っていた。本社の立て直しを命じられた上原は東京に戻り、経営再建に乗り出す。このときから実質的な最高責任者となった上原は、次々に打開策を生み出していった。包装や容器を単純化することでコストカットを計ったほか、社員教育にも力を入れた。これはすなわち、社員の意識改革である。働くことで成績が上がり、成績が上がればさらに働くことが楽しくなる。この好循環を社員に説くことで、意識レベルで生産性を高めることに成功したのだ。
「思わぬ発想」が、さらなる躍進の原動力に
  • 「かくして東京本社の立て直しにも成功した上原は、やがて大きなヒット作を生み出すことになる。当時大正製薬では、タウリンやビタミンを配合したガラス瓶のアンプル剤を販売していた。一般的に薬は苦いものというイメージがあった中で、すでにこのアンプル剤は味がいいと市場から好評を得ていた。
    そこに目をつけた上原が、抜きん出たアイデアを思いつく。「容量を増やせば薬くささはもっと薄れるし、さらに味をつけて冷やし美味しいものとしたら、もっと市場に歓迎されるのではないか」。この独創的な発想を商品に落とし込み「リポビタンD」と名付けて売り出したところ、たちまちのうちに大ヒットを記録。目論見の数十倍もの発注に対応するため、生産ラインが昼も夜もなく稼働するという事態に至った。これを機に、大正製薬はOTC医薬品分野のトップランナーへの道のりへと大きく舵を切ったのである。
「商売とは戦いである」という理念
  • いずれのエピソードからも、上原がいかに機を見るに敏であったか、そしてその都度いかに合理的な判断を下せたのかが見えてくる。そして成功に至った鍵を考えたとき、上原が目指した合理性や持ち前のアイデアに加え、「ひとつの考え方が念頭にあったから」といえるだろう。
    上原が残した言葉のひとつに「商売とは戦いである」というものがある。馴れ合いを潔しとせず、ビジネスにおいて正々堂々と競争を仕掛けていく前向きな姿勢が、大正製薬の成長という結果をもたらしたのだ。 すなわち大正製薬の礎を築いた上原のこの理念は、今日に続く大正製薬のスピリットであり、今日まで脈々と受け継がれているものである。